日蓮大聖人誕生八百年記念の御経本御報恩謝徳出版に際して

日蓮大聖人誕生八百年記念の御経本御報恩謝徳出版に際して
                   令和元年11月 三 寶 院 廣 田 頼 道  
 

 日蓮大聖人が承久四年二月十六日安房小湊片海に旃陀羅が子として産まれ、来たる、令和三年(西暦2021)二月十六日で、八百年の時の流れを刻みます。まだ日蓮大聖人の生きていた時代から、八百年しか経過していません。
 何故なのか、昔から世の中の大方の人間の心理は、「元年」が大好きのようです。ニュースで令和天皇の初めての皇居一般参賀に 14万人もの人々が押し寄せたと知り、改めて、その事を痛感確認しました。       
 日蓮大聖人の生涯を整理した年表においても、改元月以前の項目でも、旧元号でなく、新元号で○○元年と表現されています。私は長年にわたって、日蓮大聖人の誕生年号も殆んどが「貞応元年二月十六日」と表示しているのですが、日蓮大聖人の誕生から出家に至る幼少期の感受性豊かな成長期は、承久三年に起きた【承久の乱】の、権力が朝廷から鎌倉武士に移行した、天地がひっくり返ったような、それまで常識と考えられてきた秩序や価値観の物差しが根こそぎ変化した混乱の時代と、切っても切れない時代であり、この事は、日蓮大聖人の出家を決定付ける事に、必要不可欠、主要な条件である事を深く認識する為にも、貞応元年でなく、絶対に「承久四年二月十六日」と表記すべきであると訴えているのであります。この点だけは、日本人の元年好きの性癖に流されるべきではないと考えているのであります。

 この日蓮大聖人聖誕八百年を記念して、日蓮大聖人が毎日の勤行で読まれていた、方便品の世雄偈を入れた御経本を作成し、改めて「読むべき世雄偈の大切さ」を広く訴えて、現代の日蓮正宗系の信仰をしている人々が、世雄偈を、長いから面倒くさいと省略する勤行を当然とし、日蓮大聖人が世雄偈を何故読まれていたかも知らない人々が殆んどになってしまっている現状に対して、日蓮正宗の正式な勤行を知る手掛かりとなる御経本を示す事は、非常に意義のある事であり、聖誕八百年の報恩にふさわしいのではないかと考えた次第であります。

報恩の為に作成する以上は、まず、日蓮正宗で長年にわたって出版されて来た、御経本の欠点を出来るだけ改善した御経本にしたいと考えました。

①日達上人は登座以前から、日蓮正宗が身延日蓮宗系で出版した法華経を利用し、日蓮正宗独自の法華経が無い事を憂いて、川澄 勲氏を招聘し、御本尊様の前の経箱と導師の前の経箱に御供えする法華経二十八品を鎌倉時代の書体を再現して書写して頂き、印刷製本し、全ての寺院安置の法華経を改新したのであります。
 僧侶が出家得道式を迎えた時に、必ず師匠から数珠と漢字だけの御経本を頂き。「僧道を全うせよ。」と声を掛けられますが、その時、頂戴する、漢字だけの御経本は、川澄 勲氏が書写した法華経二十八品から方便品、壽量品を抜き刷りしたものであります。阿部信雄さんは、教学部長時代に、川澄 勲氏から、現在の大石寺法門の矛盾を事ある毎に指摘された為に、私怨を持ち、川澄 勲氏の書写した法華経を排し、新たに違うものを作成したと風聞しますので現在はどうなっているのか分かりませんが、焚書をすれば、その事実を抹消出来ると考える幼稚な考えであります。
 
 この事と同類の事柄で、正本堂建設の時、己が御先棒を担ぎ、「正本堂は現時に於ける事の戒壇」などと、創価学会に阿り正当化し、建立した正本堂。衆目に触れる前から、御前机に前代未聞の破廉恥な池田先生の上半身裸のレリーフが刻まれていた事を、日達上人はじめ、早瀬日慈、阿部信雄、宗務役僧は何度も設計や事前現場視察を行い、知っていたにもかかわらず拒否せず認可しただけでなく、よいしょまでして池田先生特別席まで作ったのであります。正本堂は創価学会員だけの御供養で建立されたの物ではありません。正本堂は池田先生の象徴だから破壊したので無く、阿部信雄の恥の象徴だから破壊したのであります。しかし正本堂を破壊し、そこに奉安堂を建てても、そこに阿部信雄さんが池田先生に追従し賛美正当化した正本堂が存在していた歴史の事実は何百年、何千年経過しても、破壊した事により、より一層燦然と輝き続けるのであります。
 現実に、顕正会は、自分達の諫言によって正本堂を崩壊せざるを得なかったと宣伝流布しています。阿部信雄さんが亡くなった後も、も~いいかいでは無く、ま~だだよが続いているのであります。
 又、阿部信雄さんは、日達上人時代に開基された末寺寺院の御本尊様も何の損傷も無いのに、本堂を改修したとか、新築したとかいう法要に事寄せて、安置してから50年も経過していない。それも日達上人開基寺院の本堂安置の日達上人染筆の本尊を自分が書いた本尊に替えさせています。これは、日達上人からの相承が無いにも関わらず、日達上人から相承を承けたと強言し、猊座を簒奪した事を既成事実として正当化するために、即座に初心者へ下附する御形木御本尊を作成し、精力的に御本尊を書写し、末寺の住職も阿部信雄さんに良く思われたいとの忖度で、表面上は、末寺の住職の方から願い出があったのでという建前を取って取り替えを実行しているのであります。そこには当然常識を超える、末寺住職からの本尊書写願い出の御供養の差し出も産まれるのであります。日達上人も、その傾向がありましたが、阿部信雄さんは相承を授けて貰ったと主張する日達上人書写の本尊と入れ替えて行くのですから、その厚顔無恥の権勢欲は常軌を逸したものがあります。当たり前の事ですが、御本尊様を己の縄張り勢力図の様に用いる事は明らかに謗法であります。

 話を御経本に戻しますが、昭和20年代から大石寺で出版されて来た御経本は、どういう理由があるのか、記号的デザイン文字である明朝体活字で印刷されてきました。しかし、本来御経本は、肉筆で書かれるものでありますから、せめて活字であっても、楷書の教科書体の活字を使う事が理想的な姿だと思います。
 そこで、聖誕八百年報恩の為の、この御経本は、大韓寺住職岡本領道師が「蓮華山大韓寺御会式記念」祖歴771年檀紀4325年(平成4年西暦1992年)10月13日出版された。書家に書写を依頼された漢字の御経本に日本の振り仮名を付けて制作出版したい旨を御願いした所、快く認めて頂き、一歩理想の御経本を作る事に近づけました。

②古くから大石寺版として出版されている御経本の振り仮名は、
みょうほうれんげーきょう ほうべんぽんだいにー
とされています。ちなみに、昭和六年(1931)の六百五十遠忌の折に記念品の御供物として配布された御経本の振り仮名は、
めうほふれんげきやう はうべんぽんだいに
とされて、その時代の常識である旧仮名遣いで、現在の様な、詰めて読む時の「ッ」や延ばす時の「-」はありません。この時代には、新しく日蓮大聖人の仏法を信仰する道に入った僧俗の初心者には、必ず師匠、兄弟子、教化親が口伝えで練行をする事が慣例化していたのですが、世の中の生活リズムが速くなり、世知辛くゆとりが無くなって来るにしたがって、慣例化は崩れ無くなって行き、入信者個々が、参詣の折々に、御経本を頼りに、集まっている信仰者の読経唱題に唱和し、ついていく様に努力しなければいけない個人の問題になっていきます。そうすると自然に御経は、練行の口伝えでは無くなって、個々のクセが百花繚乱を競うようになってしまう流れになります。その流れに順ずる様に、御経本の振り仮名が実際の発音に即した「ッ」と「ー」を入れて、口伝えの練行で教えていたものを補填し、日蓮正宗の勤行の基本である、「雨垂れ経」と言われる、最初から最後まで、同じ調子をメトロノームで刻む様に、一本調子を保つ為のテンポ調整の役目を、この二つの記号で補足するようにしたのであります。ですから古い時代の御経本には「ッ」「ー」が無いのであります。
 日蓮正宗の勤行の発音は、伝統的に実際の発音重視の振り仮名を付けます。身延日蓮宗は、頑迷に書き言葉の振り仮名を正統と主張し、日蓮正宗と水と油の様な象徴的な違いがあります。
身延日蓮宗系では、
なむみょうみょうほうれんげきょう
と、発音の流れが悪くギクシャクしても、この様に読みます。他の御経に於いても、全て書き言葉の振り仮名で御経を読む事を正統と考えます。これほど【む】に拘るなら何故、【う】に拘り、【う】を読まないのでしょうか。
 日蓮正宗の勤行は実際の発音を重視し正統とします。ですから、本来、
なんみょーほーれんげーきょー
でなければいけないはずなのですが、よくよく、過去からの時代時代に出版された何冊かの御経本を見比べると、発音重視の振り仮名と主張しながら、
なんみょうほうれんげーきょう
との振り仮名になってしまっているのであります。
「みょうほうれんげーきょう」と振り仮名が付けられていても、この三つの「う」は読まれていなく、書き言葉の振り仮名が混乱して入ってしまっているのであります。
つまり、書き言葉の振り仮名と、読み言葉の振り仮名が、規則性も無い混乱したまま、表記されている事が、やっと分かったのであります。この事は、今迄誰も気付かず、誰も指摘する人はいませんでした。私も気付かずに生きて来ました。何故気付いたかというと、縁あってアメリカの御信者さんと40年以上の交流があり、何人かの人は、三寶院の法華講員として所属しています。その人達と訪米した時に朝夕の勤行をするのですが、何年経っても、綺麗に唱和出来ない。これは産まれた時から染み付いた英語圏の発音、舌の動きの違いであり、訛りの様なものだからあきらめなくてはいけないのかなと思いながらも、「何故、なんみょおーほおーれんげきょおー」と唱えるんですか?と問うと、不思議そうな顔をして、英語版の御経本を差し出します。それには、
Nan myo‐ho- ren ge kyo-
と、あります。振り仮名を正しく忠実、律儀に読もうと思えば、スタッカートの様な読み方になり、唱和出来ないのが当たり前になっているのであります。
 発音に順ずる振り仮名表示と、漢字の読み振り仮名が混同混乱している大石寺出版の御経本からローマ字振り仮名に変える事だけに神経を使い、訳されたものが作成され、現在まで何も考えない、感じないでやってきたのであります。
 私は、縁あって米国の御信者さんに教えて貰う機会を得て、今回の出版に当り、全面的に、読み方主体の規則に相当数の箇所を訂正し、統一した振り仮名に改訂しました。
 又、私は今迄、ローマ字は世界共通の発音表記だと思い込んでいましたが、これも米国の御信者さんに指摘され、日本と少数の国しか使用していないものだという事が分かりましたので、英語スペルの発音表記にしました。これも今迄に無かった改訂だと思います。

③最後に、日蓮大聖人法門に順ずる様に、観念文を改正しました。
まず、既成の初座の観念文は、

生身妙覚自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王等惣じて法華守護の諸天善神、諸天晝夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に。
もしくわ、
生身妙覚自行自行の御利益・大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照大神・正八幡大菩薩等惣じて法華守護の諸天善神、諸天晝夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に。
という内容で、「大日天王・大月天王大明星天王・天照大神・正八幡大菩薩」という、法華経の中には登場するはずも無い、日本固有の神々と神仏混交の象徴である正八幡大菩薩を入れてあります。これは、御本尊様の中にも書かれている事と、特徴的なのは、大石寺自体が日本国政府が富国強兵を目指す時代には、戦意昂揚の波に迎合して、初座観念文に「天照大神・正八幡大菩薩」を入れたり、その波が下火になれば、外したりしてきたのであります。
 法華経序品第一の冒頭に於いて一切の諸天善神が法華経説法の気配を感じて参集する場面であっても、
天龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、大梵天王・帝釈天王だけの列記であります。
 これ等の諸天善神は、あくまでも一切衆生平等成仏の法である法華経守護の善神であります。つまり、「正直者の頭に神宿る」の諺に象徴されるように、正しい道理に叶う生き方をしている者は、道理を守る為に神は、道理に叶う人を守らざるを得ない。その神を信じて祈ったから、その人を守るのではなく、正しい道理を守るのである。「常為法故而衛護之」は、この事を明確に表現しているのであります。
 鎌倉時代以前の時代には、森羅万象全ての個々の存在に神(霊魂)が宿っている。八百万の神々という考え方が主流でしたが、源氏が平家(朝廷)と覇権を競い、朝廷を屈服せしめ、鎌倉に幕府を建て、世の中を武士中心の社会に変革させていきます。源氏は朝廷との闘いで、八幡大菩薩を軍神と立てます。そして覇権を握った為、幕府を立て鶴岡八幡宮を中心に鎌倉の街を整備します。此の為、八幡大菩薩信仰は、源氏にあやかる、勝ち馬に乗る、長い物には巻かれよの考え方から、全国に拡がり、戦国時代の武将も、陰惨な大敗戦を経験した第二次世界大戦でも、八幡大菩薩を軍神と奉り闘ったのであります。戦争に負けても、八幡大菩薩を信仰していた、国や個人や神社は、何も反省する事も、検証する事も無く、未だに全国神社の御神体で、一位を占めているのであります。八幡大菩薩に戦勝を祈り、戦争に負けても、八幡大菩薩をまつり信じ続ける矛盾を世の中の多くの人々は何も考えないのであります。
 天照大神は天皇家の祖先神であるとか、八幡大菩薩は源氏の軍神であるとか、権力者は一族の中心とする神を定めていきます。そして、侵略、征服した国々に対して、敗戦した一族がそれまで信仰していた氏神への信仰を捨てさせ、自らの氏神を敬い従う事を強制していきます。つまり、全ての生命に魂が宿り、全ての生命は平等で尊いという、古代から育まれて来た八百万の神の考え方は、西洋の十字軍の侵略とキリスト教の強制布教と同じパターンで変質して行ったのであります。
 それから、日蓮大聖人の時代の世界観は、インド、中国、日本しかない世界観であります。現代の様に、世界中に妙法の縁を持っている人達がいる時代とは、まったく違うのであります。にもかかわらず、元々の八百万の神の思想でなく、権力者の氏神という思想に変質してしまい、法華守護のイメージが皆無になってしまっている、
天照大神・正八幡大菩薩  
を、入れる必要はないのであります。
 この様に考えると、
大日天王・大月天王・大明星天王
も、諸天善神の代表的立場で、太陽、月、星々という自然を象徴する内容から上げられているのでありますが、上げる事によって、一切の法華守護の諸天善神という考え方が希薄になり、加えて、 
天照大神・正八幡大菩薩
を入れる事により、現代の天皇の祖先神天照大神、全国に存在する八幡神社の間違った思想イメージと混同混乱するだけで、百害あって一利なしということになります。
 世界の中で日本が一番優れていると考える、扁党偏執した民族主義を基盤にした内容は改めて、法華経を中心にした、森羅万象全体に共通した、法華経守護の諸天善神にすべきであります。
このことから、初座の観念文は、

法華守護の一切の諸天善神、諸天晝夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に。

とすべきだと思います。法華経の内容から見れば、世界中の神々が、偏狭なセクト的宗教や民族のシンボル、権力者のシンボルでは無く、一切衆生平等成仏の法である法華経守護の勤めを果たす役目をまっとうし、責任を果たす存在なのだから、個々の名前を挙げれば、逆に一切の諸天善神の意識が現代人がイメージする神に対する考え方へ矮小化され変質してしまうのであります。
それから、初座の観念文の冒頭の
生身妙覚自行の御利益
は、日蓮大聖人が一切衆生に法華経の行者として、生涯を通じて、身を持って示した、一切衆生平等成仏の法説き切る事が出来たという御利益(功徳)を、諸天善神も生涯を通じて日蓮を守護してくれました。という意味ですが、あまりにも難し過ぎて、長年の口癖の習慣で読んでいますが、何の事を言っているのか、分からないで読んでいる人がほとんどであります。全ての神々が法華経に叶う法華経の行者を守護するというのが、初座観念文の根幹主旨でありますから、神々個々の名前は削除すべきだと考え、

法華守護の一切の諸天善神、諸天晝夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に。

が、初座の主旨に叶い、表現する最善の内容だと考えます。

④次に二座ですが、日蓮正宗に於いては、昔から、二座と三座で、【三寶供養】の御祈念と称されて来ました。【三寶】は、世間一般常識では、【仏法僧の三寶】と称しますが、本来は【法仏僧】の順序が正しい成り立ちであります。この観念文は、この本来の正しい順序に順じて【法仏僧】の順序で示されています。つまり、一切衆生平等成仏の【法】を悟った人間が【仏】となり、その【法】を次の時代の同じ信を抱く信仰者【僧】に伝えるという順序であります。そうすると、二座の本尊供養とは、本来【法】に対する、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の為の内容でなければいけないのですが、現在の観念文は、どうなっているかというと。
 南無本門壽量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境智冥合・久遠元初・自受用報身如来の御當體・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊・御威光倍増御利益廣大御報恩謝得の御為めに 南無妙法蓮華経
と、なっていますが、この文章では、独一本門戒壇の大御本尊という物体が、
①本門壽量品の肝心
②文底秘沈の大法
③本地難思境智冥合
④久遠元初
⑤自受報身如来の御當體
⑥十界本有常住
⑦事の一念三千
⑤人法一箇
の、⑧つの最強の満艦飾集合体が戒壇本尊であると表現していることになります。つまり、戒壇本尊が日蓮大聖人の法の全てであるという事を言っているのであります。
 とんでもない話であります。先に申し上げた様に、【三寶】は、一番始まりの根本が【法】であります。【法】の次に【仏】その次が【僧】であります。三大秘法に移行すれば、【題目(本因)】【本尊(本果)】【戒壇(本国土)】であります。戒壇本尊は、眼に見えないけれども確かに存在する法を、一切衆生に知らしめる為に顕した一つの本尊であります。本尊自体が法ではありません。
 この観念文は、法論、折伏、改宗が禁じられていた江戸時代に各宗各派が、我田引水の我宗こそ独一に尊とけりとした時代に、大石寺も御多分に漏れず、競い合うように戒壇本尊を祭り上げ、日蓮大聖人の法そのものであると主張し、結果法から外れる、負の遺産になっているのであります。淫祀邪教の御肉牙も、この時代に突然作られ現れて来た物でありましょう。胡散臭い物の方が、仏様なら、さもありなんとありがたがられ信仰心が増す時代であり、その道理を検証する科学的方法も無かった為に、言った者勝ちが通用したのであります。【戒壇本尊】が法で無く、戒壇本尊が本尊の中の本尊で、戒壇本尊以外の他の本尊は、戒壇本尊の影である。戒壇本尊が一番で末寺の本尊が二番で御信者の各家庭の本尊が三番である。末寺の本尊も影なら、何故二番になるのか、論理不能であります。御本尊に書かれる【奉書写之】の【之】は戒壇本尊を書写したという表現だと大石寺は主張しています。本尊の中の本尊を【之】呼ばわりする尊崇の信仰なのでしょうか? 戒壇本尊は、森羅万象の存在が、成住壊空の道理に順じて、灰燼に帰しても、戒壇本尊には、壊空し灰塵に帰することは無いんだ、戒壇本尊が無くなれば、日蓮大聖人の法が無くなる事だと、大石寺は頑迷に言い張るのであります。まさしく偶像崇拝に堕獄しているのであります。
久遠元初も、この地球が火の玉で、生物も人間も存在しなかった。ビッグバーンより以前の過去久遠元初から、日蓮大聖人は、存在し、正しい法を説いていた。という、三千塵点劫、五百塵点劫よりも久遠は古いんだと、時間経過の中で、久遠元初を捉えているのであります。日蓮大聖人は久遠元初から生きているからというこれまた偶像妄想信仰に堕しているのであります。 久遠元初から生きている本仏では無く、森羅万象全ての生命に貫かれた、生命の本質を説き示す、久遠元初の法を末法の衆生に初めて示したから、久遠元初の本仏と称するのであります。久遠元初から生きている日蓮大聖人と言うなら、今現在、日蓮大聖人は、何処にいるのかと問えば、何処にもいません。久遠元初から生きているなら、弘安五年十月十三日から現在まで、日蓮大聖人は何処にいて常住此説法、不滅の滅、しているのか教えて下さい。いるならば、直接御会いして、大石寺や創価学会、身延日蓮系の信仰の誤りを分かり易く説き御教導して頂きたい。貫主が日蓮大聖人なんて妄想を抱く者に、それは偽者が語っているだけだ、ここにこそ日蓮大聖人がいらっしゃると教えて上げたい。大石寺の僧俗に問えば、現実にはいないが、戒壇本尊が日蓮大聖人そのものだと主張する人、貫主が日蓮大聖人そのものだと主張する人、いったいどっちなんだ、依法不依人から外れて、外道の妄想狂信に陥ってしまっているのであります。
 ①本門壽量品の肝心②文底秘沈の大法③本地難思境智冥合④久遠元初⑤自受報身如来の御當體⑥十界本有常住⑦事の一念三千⑥人法一箇という法の表現が、全て戒壇本尊にぶっこんで、ついには、戒壇本尊こそが、①本門壽量品の肝心②文底秘沈の大法③本地難思境智冥合④久遠元初⑤自受報身如来の御當體⑥十界本有常住⑦事の一念三千⑦人法一箇そのものであるという、すり替えになっているのであります。戒壇本尊が現れる以前から、これ等の法は本然の道理として存在しているのであります。 
 このような妄想狂信を正当化し促している現在の二座観念文は、

一閻浮提総与、全ての本尊の要旨、一切衆生平等成仏の妙法
御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

と、日蓮大聖人が顕した全ての本尊の中味の法こそが信仰の要旨、日蓮正宗の宗旨なのであります。その事を表現しなければならないのであります。
 日蓮大聖人が唱える南無妙法蓮華経の【題目】も初信の凡夫が唱える南無妙法蓮華経の【題目】も平等で同じであります。ならば当然【本尊】も【戒壇】も、三大秘法全てが平等でなければ辻褄が合わないのであります。大石寺は、【戒壇本尊】を仏法の全てと主張し、三大秘法全ての平等という当たり前の法門を破壊しているのであります。

⑤次に三座ですが、三座は前に申し上げた様に【法】の次に、凡夫が法を悟り【仏】となる【仏】の日蓮大聖人の御祈念であります。

南無本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳大慈大悲宗祖日蓮大聖人師、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に。

と、なっていますが、二座の観念文で指摘したように、【久遠元初】が正しく理解されず、五百塵点劫より古い【久遠元初】から生きているから、釈尊は【本果妙】で、日蓮大聖人は【本因妙】だという程度の誤った理解をしている者が、この様な観念文から想起するのは、凡夫僧日蓮大聖人では無く、釈尊より偉い、凡夫の手の届かない雲の上の存在である。【本因妙】と口では言いながら【本果妙】に上げ奉った日蓮大聖人の御祈念になってしまっている為、

末法の御本仏日蓮大聖人、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

が、これもあれもの満艦飾を排して、一点に絞り、心に念じなければいけない内容と思います。

⑥に、

南無法水瀉瓶・唯我與我・本門弘通の大導師・第二祖白蓮阿闍梨日興上人師、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

と、なっていますが、【法水瀉瓶】も【唯我輿我】も、現代の貫主の正当性を形容する為に、悪用されているだけの語句ですので、

第二祖白蓮阿闍梨日興上人師、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

で、充分であります。日興上人は「いずくにても、聖人の御義を立てまいらせん」日蓮大聖人の身に影の如く寄り添い、法難、流刑の地で寝食を共にした生活の中から、日蓮大聖人こそが末法の本仏と拝され、法華経の行者として生き、成仏する事の大切さを、弟子、信徒に伝えようと、大石寺を日目上人にまかせた後の重須35年間の姿があるわけですから、この表現が許されるのは日興上人だけであります。【法水瀉瓶】【唯我輿我】と、日興上人を讃歎している様に表現し、実は貫主の権威付けとして歴代に被せる意味合いに悪用する事は、間違った信仰に導く洗脳であります。

➆に、

南無一閻浮提の御座主・第三祖新田卿阿闍梨日目上人師、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

と、あります。これは、日蓮大聖人を日興上人が末法の本仏は日蓮大聖人であり、釈尊等一切の諸仏は迹仏であると、日蓮大聖人の法門から拝し、日興上人を出家の師とした日目上人も、日興上人の、その姿勢を拝し、日蓮大聖人を末法の本仏と拝したのであります。それ故日蓮大聖人を宗祖、日興上人を開祖、日目上人を三祖、他の歴代は世と表現を変え、日蓮正宗の法門の根幹は三祖の鼎を源として成り立っている事を表現しているのであります。
 南無一閻浮提の御座主は、日興上人と共に身延を離山し、大石寺を拓き、日興上人が重須に移った後、大石寺を支えた生き方を表現し、後に続く歴代は、日目上人の生き方こそ一閻浮提の御座主として手本としなければならないという表現なのであります。
 大石寺貫主や、池田大作さんの様に、日蓮大聖人の化身や生まれ変わりを名乗る者は出ても、何故、法水瀉瓶の日興上人、一閻浮提の御座主の日目上人の生まれ変わりを名乗るものはいないのだろうか不思議でなりません。生まれ変わりを名乗る者は、日興上人、日目上人の生き方よりも、自分が法華経の行者として優れていると考える愚かな増上慢人であると思います。大石寺の僧俗は頑迷に、貫主が現代の日蓮大聖人であると称しているが、貫主が日蓮大聖人、日興上人、日目上人に匹敵する法華経の行者と言える生き方をしているでしょうか、本当に立場をわきまえない狂人の輩だと思います。日目上人を讃歎している様な表現をし、実は貫主の権威付けに悪用されているのであります。
 以上の事から、狂人の輩が足蹴にし、日目上人を乗り越え、死語にされ、悪用され美辞麗句の観念文に封閉されてしまっている、「南無一閻浮提の御座主」は除き、

第三祖新田卿阿闍梨日目上人師、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

と、すべきだと思います。

⑧に、

南無日道上人師、日行上人師等御歴代の御正師、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に

は、まさしく、大石寺歴代貫主の中には、日蓮本仏を否定し、釈尊を本尊本仏と拝する、正師で無かった者もいたという事が分かる表現になっています。全員が日蓮大聖人の化身で生まれ変わりであるのなら、わざわざ正師と形容する事は屋上屋を架す事になるので、必要無い事なのでありますから、自ずから馬脚を露す事になっているのであります。
 日蓮大聖人の法は、全ての生命が十界互具の凡夫で、森羅万象、凡夫でない生命はないのであります。貫主も、全て凡夫であります。邪師も戒めの手本として、変毒為薬し、三祖の源に立ち還る戒めとして生かせば良いのであります。それ故、馬脚を露す「正師」は削除し、

南無日道上人師、日行上人師等御歴代上人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に

⑨御祈念は、旧来は、

祈念し奉る爾前迹門の謗法退治、一天四海本因妙広宣流布、大願成就御祈祷の御為に
某過去遠々劫現在漫々の謗法罪障消滅、現當二世大願成就の為に
こうですが、信仰する者の心の中にも、瞬間瞬間謗法は湧き起こるものですから、信仰者には謗法が無く、不信者だけに謗法が有るという「謗法退治」は止め、信不信平等に、「謗法厳戒」にするべきだと考えます。御題目を唱え乍、戒壇本尊が仏法の全てであり、大石寺の貫主が日蓮大聖人の化身であるなどという頑迷な謗法者が本門にも沢山いるのでありますから。

祈念し奉る爾前迹門の謗法厳戒、一天四海本因妙広宣流布、大願成就御祈祷の御為に
某過去遠々劫現在漫々の謗法罪障消滅、現當二世大願成就の為に
⑩ 回向は、旧来通りで良いと思います。

當門流信仰の面々、内得信仰の面々、各先祖代々の諸精霊、追善供養證大菩提の為に南無妙法蓮華経
某先祖代々の諸精霊、追善供養證大菩提の為に

⑪観念文の最後は、旧来通りが、日蓮大聖人の一念三千法門を端的に示した、自他彼此の心を超越した含蓄のある内容ですので旧来のままで良いと思います。

乃至法界平等利益自他俱安同帰寂光

ただ、大石寺の僧が出版している本には、「乃至は接続語であり特に意味が無い」と、間違った解釈しています。特に意味が無ければ、乃至を冒頭に示す必要はありません。乃至とは、○○から○○迄という範囲を示しているのであります。つまり、森羅万象、三千大千世界、永遠常住、無量無邊を指し示しているのであります。全ての生命が大海の様に一つに繋がり、眼に見えぬ塵のような一念の生命にも、三千大千世界の生命が関わり貫かれ、全ての生命が支え支えられ合って存在し、大海からすくわれた一滴の生命が、生老病死、成住壊空、有始有終の生涯を終えると、元の永遠常住、無始無終の 大海に帰って行くのであります。それ故、私達信仰者が唱える一遍の南無妙法蓮華経の御題目は、自分の為だけの御題目ではなく、自他俱に、その功徳が及び、一切衆生平等成仏の利益が全ての生命の繋がりである大海に及ぶのであると示されているのであります。特に意味が有るからこそ、乃至が冒頭に示されているのであります。

以上の事から

初座
法華守護の一切の諸天善神、諸天晝夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に。

三寶供養
一閻浮提総与、全ての本尊の要旨、一切衆生平等成仏の妙法、
御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に
末法の御本仏日蓮大聖人、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

第二祖白蓮阿闍梨日興上人師、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

第三祖新田卿阿闍梨日目上人師、御威光倍増御利益広大御報恩謝得の御為に

南無日道上人師、日行上人師等御歴代上人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に

祈念し奉る爾前迹門の謗法厳戒、一天四海本因妙広宣流布、大願成就御祈祷の御為に
某過去遠々劫現在漫々の謗法罪障消滅、現當二世大願成就の為に

當門流信仰の面々、内得信仰の面々、各先祖代々の諸精霊、追善供養證大菩提の為に南無妙法蓮華経
某先祖代々の諸精霊、追善供養證大菩提の為に

乃至法界平等利益自他俱安同帰寂光

との観念文に、改正しました。