御影様入仏御安置

日蓮大聖人御影様御入仏御安置

 
 足掛け二年掛けて、この程日蓮大聖人の御影様の彫刻を未熟乍ら完成する事が出来ました。8月13日の日蓮大聖人御報恩御講に合わせて入仏式を行いますので、御信者さんには信心の真心を持って御参詣頂きたいと存じます。
 入信してから現在まで御影様の安置を見た事が無い人は、違和感を抱き、偶像崇拝の謗法ではないかと誤解と不信を持つ人がいると思いますので、基本的な点をかいつまんで説明させて頂き、信仰上正しい理解をして頂きたいと存じます。
 日蓮正宗における御影様の起源は、日蓮大聖人が身延で生活されていた時、弟子の日法が楠木で出来た戒壇本尊の切れ端で、丈三寸(約10センチ)の日蓮大聖人の御影様を彫り、日蓮大聖人が剃髪した髪の毛を燻して粉末にし、薄墨の衣の色付けをし、 師匠の日蓮大聖人に御覧頂いた所、「我が姿に似たり」と、微笑したというエピソードが伝えられ、【最初仏】と呼ばれ、現在も戒壇本尊の脇に常時安置されています。
 日興上人は、日蓮大聖人亡き後、身延離山し大石寺、重須檀所と生涯を通し、日蓮大聖人を「仏聖人」と呼ばれ、御本尊様の御宝前を「仏聖人の御宝前」と呼び、日蓮大聖人が生きているが如く拝し給仕をされました。その為、日興上人、日目上人の時代から日蓮大聖人の御影様を御本尊様の前に御安置し、御本尊様の中央の【南無妙法蓮華経 日蓮花押】の人法一箇の姿を、御影様の存在に顕し、具体的、造型的に示し、日蓮大聖人を末法の本佛と拝する事を強く鮮明に信仰者は勿論、信仰していない世間の人々にも強い縁となるよう、訴え伝える形態を示しました。
 御本尊様の手前に日蓮大聖人の御影様を御安置する形態を「御影堂式」と言い、日蓮大聖人の在世(生きていた時代)を表現します。
 御本尊を中央にして、向かって左側に日蓮大聖人の御影様、右側に日興上人の御影様を御安置する形態を「客殿式」と言い、日蓮大聖人の滅後(日蓮大聖人が亡くなられた後の時代)を表現し、仏(日蓮大聖人)法(御本尊)僧(日興上人)を表す「三宝式」とも言われます。
 私は、全くの素人で中学時代の技術工作の授業以来、専門的に彫刻刀を使い技術的勉強をした事はありませんので、自分で彫る事は想像した事も有りませんでしたが、正信会が分裂して教区の統廃合が行われ、鹿児島の上行院住職井上豊道さんと同じ教区となり親しく御会式等で交わる機会があり、上行院さんは以前から何体かの御影様を彫刻していましたので、出来上がるまでの苦労話や制作過程のポイント等色々を教えて頂き、自分でも挑戦してみようと考え、平成26年8月から少しずつ作業に入りました。全てが初めての為、五里霧中で、少し彫っては、眺めては、頂いた何点かの御影様の写真を凝視したり、自分の身体や顔を触ったりして、自分の身体がどうなっているのかも知らないで、今迄生きて来た事に我ながら改めて驚き、どうしていいのか全く分からなくなり、無謀な事を始めてしまったと、すぐ壁にぶつかって手が止まってしまいました。その上九月十四日には足のケガで入院する事になり、一切手つかずの状況になりました。退院し、松葉杖が取れ椅子に座って机に向かえる様になっても、生活を送るだけが精一杯の状態でした。これからどうなるんだろう、順調に良くなるんだろうか、この痛みと生涯付き合って行かなければいけないのだろうか、将来このケガに関わる障害や再手術の必要が起こるのだろうかと不安に苛まれていた時に、突然心の中に、平成25年1月3日に脳腫瘍の為、13歳で亡くなった優香ちゃんの思いはどうだったのだろうかという思いが浮かび、優香ちゃんの為に、何か遺してあげたいと考え。動きがとれない、正座さえできない今の自分に出来る事は何かを考え、今の自分と優香ちゃんに一番ふさわしいものは、これしかないだろうと、何ヶ月か掛けて丈5㎝程の小さな左右の手の平を合わせた合掌の姿を彫りました。彫り乍、優香ちゃんの事を深く考え、私の今の状況は生命と向き合って生き抜いた優香ちゃんと比べる事も出来ない程小さい不安や迷いだな。治療中の優香ちゃんに逢って一緒に勤行した時の、病と思えない堂々とした大きな声を聴いた時、優香ちゃんは年齢の若さや人生経験の少なさに一切関係無く、覚悟を持って生きてるんだな、信ずるとは覚悟なんだな、自分は覚悟が無いから迷うんだ。この妙法だけに一切衆生成仏の法が説かれているんだ。この妙法でしか成仏出来ないんだ。この妙法で成仏するんだ。なるようになったら、なる様になった現実と共に生きて行く、死んだら終わりの生命じゃなくて、永遠常住の中で今の経験試練が有るんだと心静かに思う事が出来、救われました。短い手紙に、今の気持ちと、御影様を彫っているんだが・・・・・と書き御家族に送りました。その返礼に頂いた言葉の中に、「いつか必ず御影様を完成させてください。」との予期せぬ言葉が有り、その言葉で、あきらめ掛けていた気持ちから、もう一度正面から向き合おうと、逆に励まされ、毎日、一刀一刀少しずつ作業を進め始めてみました。
 昔は日蓮正宗の信仰者の中に仏師や技量の優れた大工さんがいたのですが、現在、日蓮正宗の信仰者の中に御影様を彫る人を風聞しません。仏具店の仏師は日蓮大聖人の法の信仰者ではありませんから、釈迦如来も阿弥陀如来も観音菩薩も薬師如来も大日如来も地蔵菩薩も不動明王等々生活の為にはそれぞれの仏像菩薩像の約束事の定型を踏まえて器用に何でも作ります。そういう人に頼んで、その人がどんなに技量が上手くても、隔靴掻痒で、出来上がるまで毎日朝から晩まで横にへばりついて、こうしてもらいたい、ああしてもらいたい、ああやっぱり前の方が良ったというような行きつ戻りつの思いが通る御影様が完成するはずもありません。他宗の者が作っても対価を払い、開眼供養をすれば良い訳ですが、もどかしい気持ちが残る御影様を購入御安置しても、手を合わせる対象としては違うんじゃないか、やっぱり日蓮大聖人の信仰する者が、技量が稚拙でも、仏師には望む事が出来無い、日蓮大聖人への信仰の志を持って真心から彫刻する御影様が一番信仰の道理が通っているのではないかと考えました。逆に私の技量が上がっても、私が釈迦如来、観音菩薩、阿弥陀如来を作る事は謗法であります。私は日蓮大聖人、日興上人の御影様しか作らないし、作ってはいけないのであります。
 日蓮大聖人様は末法の久遠元初本因妙の本佛ですが、御影様だけを独自に拝む事はしません。必ず十界互具の本尊と重ね合わせて信仰の対象として手を合わせ、あくまでも南無妙法蓮華経の本尊が根本であります。
 日蓮正宗の御影様は頸が抜ける様に作られ、身体の中に【腹籠り御本尊】が納められています。(信徒宅の丈10㎝程の御影様は【腹籠り本尊】を入れる事が出来ないので、背中に略式の本尊が書かれています)今回私が彫刻した御影様は、幅43㎝丈28㎝奥行き20㎝ですので、身体の中に日寛上人の御形木本尊を【腹籠り御本尊】として納めました。これは、一切衆生の生命に平等に南無妙法蓮華経の仏性が具わっている事を表しているのであります。
 日蓮大聖人の御影様は日蓮大聖人が鎌倉時代の方である事から、鎌倉時代の御影像の形態の約束事と、日蓮大聖人への尊敬の余り、普通の人間ではあり得ない立派な姿に作ってあります。
①福耳 耳と耳たぶが極端に大きく垂れさがる様に長い。
②日蓮大聖人は食物にも事欠く生活であったにもかかわらず恰幅が良く、ぷっくり太っている姿の像になっている。
③日蓮大聖人は着るものにも事欠く生活であったにもかかわらず金剛襟の衣を着ている。
④鎌倉時代の正座が胡坐の為、胡坐の像にする。
⑤6月1日~9月1日までの夏季に経巻を持った右手に御団扇を持つ様に給仕する。
 ※日蓮大聖人が生きているが如く御影様に以下の給仕をします。
○御綿帽子を10月1日に上げ~4月1日に下げます。
○御襟巻を9月12日上げ~6月1日に下げます。
○御団扇を6月1日に上げ~9月12日に下げます。

 他の御影様は正面写真しかなく、確認できませんでしたが、大石寺の大客殿の日蓮大聖人の御影様の頭の頭頂部と側頭部の中間の左には、文永元年11月11日聖壽43歳小松原に於いて東条景信が馬上から日蓮大聖人に斬りつけた刀傷が寒くなると生涯疼き、その為綿帽子を被って癒したと言われる刀傷が生々しく彫られ再現されています。一般的に尊敬する人物の像は、尊敬の念がそうさせるのか、本人よりも大きく恰幅良く立派に作られ、傷やアザは表現しないようにするのが暗黙の常識ですが、これは敢えて日蓮大聖人が法華経の行者として生きた証としての象徴として写実的に示したものだと思います。この事から、私は、出来るだけ、示同凡夫の普通の人間として御影様を彫った方が良いと考え、①普通の耳②普通の顔、身体をぷっくり肥満姿にはしない。③日蓮大聖人本来の今に伝わる、日常的な薄墨の衣、白五条の袈裟の姿にしました。日常生活で金剛襟を着用していたとは考えられません。④胡坐状態だと、必ず前は、はだけるものですが、どの御影様も薄墨の衣が前にかぶさって隠れている姿は意識的に歪曲している不自然な姿になっています。また、金剛襟で着流しという姿も上下の装束のバランスがちぐはぐという事になります。現代でも着流しは、正装ではありませんので、私は上衣と同じ薄墨色の袴(下衣)姿にしました。日蓮大聖人の御影様は薄墨の衣、白五条の袈裟ですが、要法寺から貫主を招く時代を迎えてから今日までの末弟は法を表す法衣の意味から逸脱し、階級を表す絵柄綾織の袈裟衣で色指貫で御本尊様御影様に向き合っていますが、日蓮大聖人様から「その袈裟衣指貫は何だ。」と問われたら、なんと応じるのでしょうか?平安時代から藤大柄紋の貴族と朝廷に仕える神官と武士が朝廷に上がる時の正装で着用する色指貫が使用されていたにもかかわらず、日蓮大聖人、日興上人の御影様は着服していません。何故、現代の日蓮正宗僧侶が、御影様も着用していない藤大柄紋、色指貫を、これまた色により階級識別にして着用するのか、法門的説明が出来る人は皆無なのであります。説明できない物を法衣と偽り着る事は間違った事だと思います。
 胡坐と正座の違いは、鎌倉時代の儀礼風俗であって法門に抵触するような内容ではありませんので、私は現代の私達の姿に順ずる前がはだけない、上下が正装として調った袴姿にしました。袈裟衣の形態も、日蓮大聖人が鎌倉時代に着用されていたものと、現代の我々が着用しているものとは同型では無いと思いますが、現代から遡って正しい再現をする事が不可能なので、想像で作るよりは現代の我々僧侶が着用している袈裟衣の姿にしました。
⑥参考にした御影様全てが、経巻を見乍らその右手で団扇を持ち、あおぐという形ですが、自分でやってみて、どう考えても動かす事が無理であり不自然で有り得ない事ですので、日蓮大聖人がいつでも使える様、手の届く畳の上に団扇置きを位置し団扇を立てる姿にしました。
 その他、日蓮大聖人の御持ちの経巻は法華経の第六の巻であります。法華経は八軸の経巻と称せられ第六の巻の内容は、妙法蓮華経如来壽量品第十六、妙法蓮華経分別功徳品第十七、妙法蓮華経随喜功徳品第十八、妙法蓮華経法師功徳品第十九が納まります。本来これを全部書かないと正しくないのですが、全部書くと、随分太い巻物になってしまいますので、初めに四本の題号を書き記し、日蓮大聖人が御覧になっている『妙法蓮華経如来壽量品第十六 爾時佛告 諸菩薩及一切大衆 諸善男子から毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛身』迄の全文を書き写し、赤色の軸と、100年200年の未来までも虫に食われる事無く経典が伝わる様にと切実な願いを込めて写経された事にならって和紙を防虫剤として用いられたウコンで染め【黄巻赤軸】に作りました。
 昔から日蓮正宗における日蓮大聖人様の御影様の姿形は、伝統的に法華経第六の経巻の中の妙法蓮華経壽量品第十六の箇所を左右に開き見ている姿をしています。その為、読経している姿か、法華経を読み勉強している姿かと二説に分かれ推察されています。しかし、よくよく考えると、読経の時に冬は綿帽子や襟巻をし、夏は団扇であおぎながら読経する事は常識の外で、有り得ませんから、読経の姿では無く、法華経の行者として、法華経を読み研鑽をされている姿である事が極めて濃厚であります。
 日興上人の御影様の姿形は、両手で和綴じされた見開きの本を持ち、読んでいます。この本は日蓮正宗に於いては必ず撰時抄と定まっています。撰時抄の真筆は巻紙でありますから、見開きの本になっているという事は、日興上人自らが写本し、研鑽に便利な形状の本にしたものを持っている事になります。その事から考えると、日興上人も、日蓮大聖人様以上に末法を強く意識し継承し、末法の法華経の行者として、日蓮大聖人様の悟り示し説かれた、久遠元初・本因妙・一念三千の謗法厳戒の法を守り、末法一切衆生へ一切衆生平等成仏の法を流布する為の研鑽の姿を表している事になります。日蓮大聖人様、日興上人共に、法華経の行者、十界互具の修行者として生きる姿を表現している事が分かります。
 他宗の、仏像本尊となっている。釈迦仏、阿弥陀仏、大日仏、薬師仏等々は、悟りの印を結び、悪心、迷心の無い完璧な完全無欠の慈悲の姿で、一切衆生を私が救ってあげよう、守ってあげよう、助けてあげよう、私にはそれが出来るよという、衆生に拝まれるだけの立場の姿に造られ、拝まれる仏の立場と、すがり拝む衆生の立場の隔絶の関係に造られています。
 本来、こうであってはいけないにもかかわらず日蓮宗系の日蓮像の中には、権威を示す、【払子】(ほっす。長い獣毛を束ね、持ち柄を付けた形状。元々はインドで蚊や蠅を払う為に用いたが、日本では特に禅宗の僧が煩悩、障碍を払う標識として、法具として用いた。)や、【笏】(しゃく。雛人形の、御内裏様(男)と御雛様(女)は、天皇と皇后の姿を型取っていますが、この御内裏様が手にしているのが笏で、貴族が最高儀礼の衣装である束帯着用の際、右手に持って威儀を整え、貴族の権威を表したものであります。何故日蓮大聖人が貴族の階級に入り込む必要が有るのでしょうか。)を持たせた、釈迦仏、阿弥陀仏、大日仏等々と同義の発想のものが有り、釈迦本仏と立て、日蓮は末法に法を伝える日蓮大菩薩だと主張しながら、信仰思考の混乱を生じているのではないかと嘆かわしく思います。
 日蓮正宗の日蓮大聖人様、日興上人様の御影様は、法華経の行者として生きる姿こそ成仏の姿である事を示し、完全無欠で無く、十界互具の凡夫僧の修行の姿を示し、凡夫誰もが平等に、久遠元初・本因妙・一念三千の法に対する信によって仏と成る手本を示しているのであります。
 末寺は、在世を表す御影堂式よりは御信者さんと一体となった滅後客殿式の意味が中心ですので、将来、私の技量と時間が許す限り、日興上人の御影様を彫り。三寶式、滅後、客殿式の姿にして三寶院の御寶前にしたいと考えていますので、御信者さんには信心の真心を持って御影様御入仏御安置の御理解と増々の信仰増進を御願い申し上げます。
 御影様に関する点、信心全般に関する点、遠慮無く何でも何度でも御尋ね頂き、少しでも深い信仰心と志で信仰を貫いて下さい。

平成28年7月13日 壽福山 三寶院 廣田頼道

日蓮大聖人御影様への御給仕暦                                                     2016.10.7 廣田頼道

日蓮正宗の日蓮大聖人御影様への御給仕暦は

3月1日(月暦4月18日)御綿帽子下げ

6月1日(月暦7月18日)御襟巻下げ 御団扇上げ  

9月12日(月暦10月20日)御団扇下げ 御襟巻上げ 

10月1日(月暦11月18日)御綿帽子上げ

 この様に大石寺では日興上人、日目上人の時代より定まっていると推察されます。これによれば9月12日の龍ノ口法難の日が御団扇下げ、御襟巻上げの日であります。ちなみに日蓮宗系各派ではインターネットで調べてみると随分統一性無くバラつきがあって、御綿帽子の御給仕は、御会式の10月13日の御会式~春季彼岸会迄とか、11月11日の小松原法難~4月28日の立教開宗迄とか4月8日の釈尊誕生会迄とかになっています。日蓮大聖人が小松原の法難に於いて頭から血を流し、流れる血を砂を塗って止めたという話もありますが、じゃあ傷洗いの井戸の話と矛盾しますし、患部を清潔に保つ事は、いつの時代でも常識であります。もう一つ話が加わり、「おいち」という老婆が通りかかり自分の着ている綿入れの袖を破って中の綿を取り出し、傷に綿を被せる様に差し出した。という物語があります。これが御綿帽子の由来であるというのですが、止血は手や吸水性の少ない布で押さえつける圧迫止血が民間療法の常識ですから、物語としては面白い構成ですが、矛盾の多い眉唾の話と言えます。

日蓮正宗では、まったく、この様な物語は無く、御襟巻は八ヶ月半、御綿帽子は五ヶ月の着用になります。身延山中、谷あいの多湿で日照時間が短く、冬に降り積もった雪が長く溶けず、底冷えする生活によって、長期に渡る低体温症と貧困な食生活から生じる胃腸障害による冷え下痢の病に犯され、日蓮大聖人様は人一倍寒さに弱く敏感な体質になられていたのであります。 

 3月1日(月暦4月18日)御綿帽子下げにしても、10月1日から5ヶ月間もの長期で世間一般の常識から外れる、随分暖かくなった季節まで被られていた感がします。小松原法難の折、馬上から振り回す東条景信の刀によって頭蓋骨に迄食い込んだ傷の疼きが、余人の想像以上に、生涯四季を通して持病となり、特に寒さと季節の変わり目の不順な天候が重くこたえたのでしょう。その痛みを少しでも癒してもらいたいとの、後世の日興上人、日目上人の思いの御給仕を今日まで継承しているのであります。(現在の太陽暦と月齢では約48日間のズレがありますので、季候体感の違和感が生じます)下げた御綿帽子を小さく切って、御守りにするなど意味不明の論外の事であります。日蓮大聖人が小松原法難で死ぬことを免れた事にあやかりたいという気持ちはわかりますが、我々信仰者があやかるのは、それでも法華経の行者として生きられたという日蓮大聖人の生き方にあやかり、守ってもらうのでなく自分も法華経を身で読む生き方をしなければいけないのであります。

 日蓮正宗と日蓮宗系の御襟巻、御綿帽子の御給仕期間と形状の違う理由は、日蓮宗系は歴史の事実と、綿に赤色を入れ日蓮大聖人の血の色であるとか、御綿帽子で身体全体足元まで包み、正面から見ると身体全体が三角オムスビの様相となり、生活行動も出来ない姿に祭り上げて、どういう目的観なのか理解不能な状態なのであります。日蓮正宗に於いては小松原法難直後の姿を表すのではなく、極寒の身延で冷えの病で衰弱して行く身体に十年余り昔に頭に受けた傷の疼きが追い打ちをかける晩年の姿なのであります。9月12日の龍ノ口法難に合わせて御襟巻を上げるのも、後世の信仰者に龍ノ口法難を忘れないよう意識して貰いたいからだと思います。日蓮大聖人が我々と同じ凡夫でありながら、法華経の行者として生き抜かれたことを御襟巻、御綿帽子において表現している事が大きな違いだという事が分かります。(法要時に自分を偉く見せる為のアイテムとして、夏でも襟巻をする者がいますが、襟巻はそういうものでは無いと思います)

 いずれにせよ、日蓮大聖人は飢えと寒さと病と疼きを抱えながら、かじかむ手の平、指にハーハ―と息を吹きかけ耐えながら、法を伝える弟子への説法と、御信者さんへの手紙を書くことを、体調の悪化する事を襟巻、綿帽子で慎重に自己管理し予防し抑えながらされていた姿が長期間一般的には暖い季候になってからも御襟巻と御綿帽子を併用されていた姿から彷彿とします。

 池上邸で、病を押して柱に身体を委ねながらも「立正安国論」の講義をされた時も、入滅された折にも御綿帽子姿であられたであろうことが想像出来るのであります。

 頭に受けた傷の位置も、眉間と表現されている後世の表現がありますが、大石寺客殿の日蓮大聖人御影様は頭頂部と左側頭部の間に三日月形に彫刻されています。日蓮大聖人当時の文献が無いので、言い伝えなのか、想像で造られたのか分かりませんが、狂人の様に振り回す刀で頭を切られ、刀の峰で腕を折られたのではないかと思います。

 日興上人が日蓮大聖人様滅後も日蓮大聖人が生きているかの様に「仏聖人」と表現し続けた事は、弟子として寝食、法難を共にした日々の中で、一人の凡夫僧である日蓮大聖人様が法華経の行者として生きた姿こそが本仏の姿、成仏の姿と拝したのである事を、御綿帽子の形状や御影様への御給仕暦の期間の中に垣間見る事が出来るのであります。 

 捕捉になりますが、日蓮宗系の御影様には、貴族、権力者が威儀を示す為に持つ、【笏しゃく】を持たせたり、煩悩、障碍を払う標識として用いる【払子ほっす】を持たせたりしていますが、凡夫僧日蓮大聖人が【笏しゃく】(御雛人形の御内裏様が右手に持っている板状の物)や【払子ほっす】(大きな白い筆の穂先の様な形状でフワフワしていて、漆塗りの棒状の持ち手が付いている。インド亜熱帯地域では修行や説法中に虫が寄って来るので殺さないよう払子で払った。これが日本に渡り、煩悩を払う意味と権威の象徴となった)を持たせていますが、十界互具の成仏、煩悩即菩提を説く日蓮大聖人が持つはずがありません。改めるべきだと思います。又、金襴緞子の袈裟衣を着用させていますが、これも、贔屓の引き倒しで、日蓮大聖人の当時を正しく拝し、偲び、給仕している姿ではないので改めるべきだと思います。