忙しい毎日の中で

忙しい毎日の中で、心だけでも、立ち止まって、少し考えてみませんか?

 世の中に存在する全ての生命の中で、私達は何故、動物や虫や植物でなく、人間として産まれて来たのでしょう?
 何のために産まれて来たのでしょうか?
 何のために生きるのでしょうか?
 毎日の生活、仕事、家庭、子供、孫、友達、住居、車、健康、学校、学歴、就職、恋人、結婚、財産、将来、老後、趣味、遊び・・・・・・・みんな大切で生き甲斐です。
 でも、人間に産まれて来た意味、目的は、こういうものの為だけでしょうか?もっと大切な、人間に産まれなかったら出来ない事、感じられない事、もっと深い私達が見失っている永遠で本質的な意味、理由があるはずであります。
 あなたは、ひょっとしたら、生命は生きている時だけのもの、自分のものだと考えていませんか?
 生命は御父さん、御母さん、おじいさん、おばあさんに似て産まれて来るように、過去の生命と繋がっているからこそ産まれて来ます。それは、同様に今は見る事の出来ない未来の生命とも繋がって永遠なのであります。自分の生命を自分で作ったという人はどこにもいません。肉、魚、野菜、水、空気、沢山の生命を頂いて生きているという事は、生命は全ての生命に繋がっていて、支え支えられ合って、生きていられるのであり、自分だけで生きられるものではなく、今だけのものではないのであります。
 神が天地を創造したので、神が始まりと終わりを決める。とキリスト教イスラム教ユダヤ教では聖書をもとにして主張します。 
 仏の教えは、原因、縁、結果を前提にして説かれています。ですから、神や仏や特別な存在がこの天地を創ったのではなく、始まりも終わりも無く、永遠の時間の中で、永遠の過去、永遠の未来があり、永遠の過去、永遠の未来に繋がる人間を含む全ての生命を永遠無限の大海に譬えれば、この世の中に大海から生まれ大海に帰る、有限に見えて、実は永遠常住を母体とする一滴のしづくの様な生命なのであります。
 神が天地創造したというような原因を無視した教えや、仏教の中にも、真言宗のような、大日如来は初めから仏であり、それも仏を産む仏で尊いとか、念仏宗のような、人間は考えるだけ無駄だから、何も考えないで阿弥陀如来に丸投げし全てを任せれば、極楽に往生出来ますよと説く、仏教の中にも、原因、縁、結果を無視したキリスト教・ユダヤ教・イスラム教・神道と同様の教えも有ります。
 どの宗教も自分達の教えが正しいと言っているのだから、服を選ぶようにどの教えでも同じだろうと考えている人達がいますが、教えが違えば行く先の目的観も価値観も違います。救ってあげると看板を出していても、教えの中に、何故どうして救えるのか内容が説かれていなければ不正広告ということになり、人々をだましていることになります。
 その一例として、これを信じ、すがれば、病気が治る、御金が儲かる、悩みが無くなり生老病死から逃れられると説く宗教が沢山ありまが、それは人間の心の弱さにつけ込んだ嘘であります。その嘘にすがってオレオレサギのようにだまされる人たちも沢山います。宗教サギ、現世利益のもうけ話は年々増えています。生命は生老病死から逃げられないと説くのが本当の宗教です。生老病死から逃げられない、私達は【食べなければ死んでしまう】という真実と【食べても食べても死んでしまう】という真実を抱えて生きているのであります。限られた生命だからこそ宝のように尊い、だから、その生老病死に直面した時に、うろたえることなく、どの様に心を定めて、生きる事、死ぬ事に向き合わなければいけないかが真実の仏の教えには説かれているのであります。
 
 私達の生命は、私達が自分の知識や経験で考えているよりも、はるかに重く尊い事を、仏は全ての御経の王と自ら表現している法華経に、世の中の全ての生命に仏の生命がそなわり、どの生命も仏に成る資格が有るという絶対の平等を説いています。生命にランクを付け、差別を肯定する理不尽な教えに服従盲信させる教えに未来に憎しみ報復の争いは有っても、自由と平等、平和安心は絶対に無いのであります。

 「仏教」とは「仏が説いた教え」だから、「仏教」と考えている世の中の人がほとんどですが、そうではなく、「仏に成る教え」だから仏教なのであります。つまり、仏が一切の衆生のために説こうとした教えの、最高、最終の目標は、誰でも仏に成る事の出来る教えを説き示し伝えることを使命、責任としたのであります。
 
 仏が私達を成仏させてくれるのでなく、仏が人間として修行して法を悟り仏になったように、一切の仏が悟った法にこそ成仏の道が示されているのであります。釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩、地蔵菩薩等々全ての仏菩薩の悟った一切衆生成仏の法は南無妙法蓮華経なのであります。
 この法こそが、久遠元初・本因妙・一念三千の南無妙法蓮華経であると日蓮大聖人は悟り、本尊に顕しました。つまり、この南無妙法蓮華経の本尊は仏の中味、森羅万象全ての生命の根本の法を顕わした本尊なのであります。私達の生命そのものを私達に伝える為に表わされているのであります。
 
 御守りを持ったり、御札を貼っているだけで守られたり良い事が転がり込んで来たりすることは有りません。
 知識を得る為には勉強、スポーツで勝利を得たいと思えば練習をしなければなりません。つまり信仰には修行が無ければなりません。修行をしないで、何に手を合わせているのか、何を信じているのかが分からない信仰は信仰ではありません。修行の無い信仰は信仰ではありません。信仰は修行であります。その修行は、その時だけ滝に打たれたり、断食をしたりの過酷な荒行で、他人に感心されるような映像的に見栄えするパフォーマンスではなく、忙しい毎日の生活の中でも、呼吸をしたり、御飯を食べたり、寝たりするのと同様に、毎日本尊に向かい手を合わせ、自分の生命を正しく説いてくれている法を通して、自分の生命と向き合い、生命にそなわっている仏の生命を、かすかでも感じるという、誰にでも出来る、自分の怠け心、迷いの心と向き合う修行であります。
 
 忙しい毎日の中で、心だけでも、立ち止まって、少し考えてみませんか?
 私達は何のために産まれて来たのでしょうか?
 私達は何のために生きるのでしょうか?

 自分の生命の根本に仏の生命がそなわっている事を、かすかでも感じる事の出来る本物の内容が説かれてある信心の話を、少しだけ時間を作って、電話でも、直接でも、自分が出来るやり方で、少し聞いてみて下さい。