仏教の基本となる三寶の立て方

仏教の基本となる三寶(法・佛・僧)の立て方
      《【仏・法・僧】から【法・仏・僧】へ思考修正》
                          2018・2・25 廣 田 頼 道
 
妙法蓮華経方便品(開結188p)に
 是の事を思惟し已わって 即ち波羅奈に赴く 諸法寂滅の相は 言を以っての故に
五比丘の為に説きぬ 是れを転法輪と名づく 便ち涅槃の音 及以阿羅漢 法僧差別の名有り
 と示され、釈尊は自ら法を悟ったけれども、その前の釈尊がバラモンの断食の修行から離脱した行動を否定批判軽蔑され。誰も悟った法の説法を聞いてくれない。釈尊が、、釈迦族の皇太子の身分を捨て出奔出家した時、父浄飯王は、釈尊の身を心配し、家来の中から有能な人物を選び護衛の役目を課して、阿若憍陳如・阿奢踰時・跋提梨迦・婆沙波・魔訶那摩の五人を釈尊を追うように出家させるのであります。五人は釈尊と共にバラモンの修行に励みながら、釈尊を見守る生活をするのであります。しかし、釈尊は、出家したものの、バラモンの難行苦行をして、その結果、悟りを得たとしても、それは自分一人だけの悟りと救いであり、貧困の生活に追われて、難行苦行の修行も出来ない生活をしている人々、難行苦行に耐えられない病人や老人に、何も救いの道が無い様な教えに何の意味が有るのかと思索し、バラモンの教えでは、この本質的な疑問に答えが見出せない為、バラモンの信仰修行を捨てて、通りかかったスジャータの乳粥の供養を頂き断食の修行を破るのであります。それまで同じバラモンの修行をしてきた人々からすれば、修行を放棄脱落した破戒者と見下されることは当然の事なのであります。釈尊は一番身近な五人からも軽蔑されます。しかし、自分が悟った法を他人に伝え、共々に法に叶った生き方をし、生命に反映していかなければ法を悟った意味が有りませんから、釈尊は五人が修行している波羅奈国の鹿野園に向かいます。何しに来たと五人から軽蔑の罵声を浴びせられますが、此処に至る経緯理由を説明し、法を悟った事を言います。破戒者が悟りを得たと狂人の様な事を言いだしたと思いますが、自分達も悟りを求め日々修行している者として、悟ったという法を聞いた上で、矛盾や誤りを指摘すべきだと考え、その悟ったという法を聞きます。聞く内に、自分達が信じ一所懸命励んで来たバラモンの教え、バラモンの修行の矛盾に目覚め、五人は釈尊の弟子として出家するのであります。
この場面を【初転法輪】といいます。
 この方便品の箇所は、その場面を改めて振り返って説き、かつ、仏教の始まりに、仏教の基本となる【三寶】の存在が必要不可欠であり、備わっていなければならない事を明示しているのであります。
【仏】である釈尊、悟った【法】、五比丘の【僧】つまり、仏教は、自分だけが悟り、自分だけが救われる教えではいけないのであります。一切の衆生が仏と平等に成仏しなければ真実の法とは言えないのであります。仏教の最大最高最終の目標が一切衆生成仏であることは、この【三寶】を三本の柱として一つとして欠かす事の出来ない基盤としている事からも良く理解できるのであります。
 「観無量寿経」にも、
 一切の仏陀は仏寶なり、仏陀の説ける教法は法寶なり。其の教法に随って修行する者は僧寶なり、仏は覚知の義、法は法軌の義、僧は和合の義なり。
と、【三寶】それぞれの特性を示しています。阿弥陀如来を中心に考える「観無量寿経」に一切の仏陀は仏寶なりと書かれていると、阿弥陀如来が一番尊いと言えず、全ての仏は平等で、全ての仏が悟りし法は一つ妙法蓮華経であることが正直に書かれてしまったんだなという事が良く分かります。阿弥陀如来の悟った法も妙法蓮華経なのであります。

 一般に【三寶】は、【仏・法・僧】の順序で発音されます。いつの時代から、この順番で呼ばれるようになったのか、試しに、仏僧宝、法仏僧、法僧仏、僧法仏、僧仏法と、組み合わせを変えて発音してみると、何百年と慣れ親しんだ、仏法僧が一番なじむような感覚がします。他の発音はつっかかるようで滑らかさがありません。鳥類でもコノハズクの鳴き声が仏法僧に聞こえるという事で、ブッポウソウと呼ばれ、ウグイスのホーホケキョ同様親しまれています。しかし、この発音の語感から、この様に呼ばれるようになったのかどうか分かりませんが、もう一つ仮説として考えると、「観無量寿経」の文章にもありますが、古い昔からの世の中には、仏が説いた法を僧に伝えるという順番が仏教の成り立ち手順であるという考え方が至極常識として定着してしまっているのではないかと思われるのであります。
仏→法→僧
しかし、これでは法は仏の創造したものという事になってしまいます。天地創造したのは神であるという、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、神道等々の荒唐無稽の天地創造信仰と同じになってしまいます。仏教では、法や天地は、神や仏や特別な誰かが造ったものでも、誰の支配物でもなく、誰かとの契約や主従関係も無い、人類や仏がこの世の中に現れる以前から本然の道理として厳然として法は存在しているのであります。仏はその道理を法を他の衆生に魁て悟り、まだ道理から外れて迷う衆生に対して、道理に叶った生き方をすれば、争い、殺し合い、騙し合い、差別し合い、強弱、大小、財力等々を競い合い、迷うことなく、安らかな心で、他の生命を敬い、互いに支え支えられあって生きて、永遠常住の生命を自覚し不安におののくことも無い事を一切衆生に平等に伝え、自分と同じ様に悟って、仏に成って貰いたいとの目的を持って、低く狭く浅い方便の教えから、この目的に叶う高く広く深い教え【法華経】に至る迄、八万四千の経を説法教化し導いたのであります。ですから、法華経を素直に読めば誰でも理解出来る様に、釈尊も過去世に大通智勝仏の16番目の子供であった時に父である大通智勝仏から法華経の説法を受け、その因縁により悟りを得、釈尊として、衆生に法華経を説示する一大事因縁となった事が示されているのであります。この事からも分かる様に、釈尊は法華経を凡夫(修行者)として信じ修行して悟り、仏と成り、自分と同じ様に一切衆生にも、この法華経の行者として成仏して貰いたいと、法華経壽量品の最後の結びに、
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
常に私は妙法蓮華経の念いを持って、一切衆生がこれ以上の教えは無いという最上の一切衆生成仏の法である妙法蓮華経の信心修行の道に入り、速やかに仏に成る事を願っています。
仏に成仏させて貰うのでなく、一切衆生成仏の法力と、それを教えてくれる仏力に自らの信力、行力を持って成仏しなければいけない事を示しているのであります。
 法華経は釈尊が自力で悟り独創した法ではないのであります。にもかかわらず、世間は仏が説いた法だから仏法、仏教だと捉えているのであります。「観無量寿経」の解釈も世間と同じであります。この様な考え方は間違いで、仏教の本来の意味は、仏が説いた教えではなく、仏に成れる道理を明かした教えこそが、仏教なのであります。
 この様に考えると、正しい本来の手順は、
法→仏→僧
 本然の法を、釈尊は勿論の事、全ての仏が悟った法は、同じ妙法蓮華経の本然の法なのであります。一人一人の釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来等々の全ての諸仏が各自バラバラの法を悟るわけが無いのであります、どこの国のどの先生も1+1=2を子供の時に先生に習い、自分が先生になって、自分が習ったように、子供に同じように1+1=2と教えるのと同じであります。この妙法蓮華経の【法】を凡夫が悟り【仏】と成り、次代の【僧】に説き伝えるのであります。
 日蓮大聖人だけが仏の仏像を本尊とするのでなく、修行者であった人間が法を悟り仏になったのだから、仏が悟った法を本尊にしなければ、仏と同じ様に我々凡夫は成仏出来ない。仏を本尊にするのでなく、仏の中味を本尊にしなければ、ただ救って下さい、助けて下さい、守って下さいという、おすがり信心では、自らの仏性に目覚めることも出来ず成仏は出来ない事を明らかにされたのであります。法は私達の心と同じで、眼に見えないけれども事実として有る存在であります。それぞれの生命の中心に具わる妙法蓮華経の仏性を一切衆生に伝える為に南無妙法蓮華経の文字十界曼荼羅本尊に顕したのであります。偶像崇拝を目的として本尊を顕したわけではないのに、戒壇本尊こそが本体の法であり、他の本尊は影であると頑迷に固執主張する大石寺の人々がいます。
 戒壇本尊の本尊の中味は何ですか?と問うと、戒壇本尊の中味は戒壇本尊だという珍奇な答えが返ってきます。戒壇本尊のみが法なら戒壇本尊以外の森羅万象には法は無いという事になります。それでは「心の外に法を求める麤法」との日蓮大聖人の御金言に該当する矛盾なのであります。
 1+1=2は眼に見える法でしょうか?眼に見えませんね。眼に見えないけれども厳然とある道理であります。眼に見えない1+1=2を教える為に紙や黒板に1+1=2と書いて教え伝えるのであります。本当は1+1=2の文字が1+1=2ではないのであります。何も書かれていなくても、どこもかしこも全て1+1=2なんです。当然1+1=2と書かれている所だけが1+1=2ではないのであります。紙や黒板の文字を消しても、1+1=2なんです。何も書かなくても森羅万象1+1=2なんです。妙法蓮華経の法とは、それと同じなのであります。戒壇本尊を含む全ての本尊は、眼に見えなくても確かに道理として存在する、真実の法を一切衆生に伝える為に顕されものなのであります。法を本尊を顕したことも未曾有ですが、それ以上に真実の法(久遠元初・本因妙・一念三千)を一切衆生の為に示したことが、未曾有との表現の真意なのであります。
 大半の宗教は仏を中心とし、仏を始りと考える仏教であります。日蓮大聖人の法は、法を中心とし、法を始まりと考えるのであります。これが仏教の基盤となる認識でなければいけないと説くのであります。この事を、久遠元初、本因妙と表現しているのであります。
 何百年と【仏法僧】ブッポウソウと慣れ親しんで発音し、思考して来た日本の認識の現実を変える事は出来ないでしょうが、【仏法僧】の、仏が始まりで中心であるかのような意識につながる語順にたぼらかされない意識を持ち、正しい本来の仏教の有り方は、【法仏僧】の、法を始まりとして成り立っているである事を深く、強く認識し、日蓮大聖人の法は、仏にすがって成仏出来るものではなく、一切衆生成仏の法は、南無妙法蓮華経の法を中心にして、法華経の行者として信力、行力を尽くす事によってのみ成仏出来る事を一切衆生に唯一訴えているのであります。