仏法・仏教の基本

仏法・仏経の基本   2018,6,20 廣田頼道


 仏教用語の中には、三つの要素で大切な一つを表現するという方法が取られます。しかしながら、例を挙げると、「仏法僧」「戒定慧」「経律論」の様に、読み易い発音リズムが優先されたのか、長い年月の中で、それが正しい順序と誤解され、そうなったのかは不明ですが、その順序が、大切な一つを表す順序手順の様に誤解をされている方々が多いので、ここに、本来の順序とはどうあるべきなのか示してみました。
 「仏教」は仏に成る教えを目指している八万四千と言われる膨大な一切の経典の事であります。「仏法」は仏教の最高・最上・最終の目的である一切衆生平等の成仏の究極の法であります。仏教は仏法に向わせる途中の道案内の矢印→で、仏法は一切衆生平等の成仏の法という最高・最上・最終の目的到達点の法であります。
 ここでは、目的(仏法)と道案内(仏教)という関係を明示する為に「仏法・仏教の基本」という題名にさせて頂きました。


1→2→3

 1、2、3どれもが不可欠で重要な要素ですが、
1の要素に2の要素が加わり、1,2を踏まえて3が加わり、3本の鼎足で支えられて、3要素を含んだ、大切な一つが完成成立する。
 例えば、過去・現在・未来、もしくは、根(実・種)→幹枝→花(実・種)の関係性があってこそ、実体の真実を示す事が出来るのであります。
 以下の内容を左から順番に、1→2→3の順序で考えて頂く様、以下の説明の基本指針として冒頭に示します。


因→縁→果  

 森羅万象全ての生命は、因・縁・果・因・縁・果の連続の関連によって、時間という実態と、天地創造説の、初めが有り、終わりが有ると言う考え方が、いかに不完全な考え方であるのかが分かり、一切の生命は永遠常住である事が成り立つ。


法→仏→僧

法・仏・僧それぞれが宝といういう意味で「三宝」
 一般的には「仏法僧」の三宝という順序で表現し、仏が法を創り出して説いた教えが法で、弟子である僧に伝えたのが仏教。世間一般の方々は、仏の創り出した教えだから仏教と理解している方々がほとんどであります。しかし、それは完全な間違いで、本来の順序は、釈尊出現以前から、人類が存在する以前から、宇宙が存在する以前から、本然として存在する「法」を、人類の誕生と智恵が磨かれて行くと共に、悟った人間が「仏」となり、次世代の「僧」(弟子・信徒)に自分(仏)が法を悟って仏になったように法を伝え、師弟共々に成仏するように導く事を示す、法→仏→僧の順序が正しいのであります。
「法前佛後」法が元々本然として有り、人類の智恵が熟成して行く過程の中で多くの人間の中で深い思慮を持った人間が、先鞭を切って法を悟り仏となり、自分が悟った法を衆生に教え導く。という順序が正常な姿ですが、世間一般には、「佛前法後」まず完全無欠の佛が存在していて、その佛が説いた教えが法だという解釈と理解が正常の様に理解されています。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、神道等々の主張する「天地創造」と同次元の法と仏(神)の整理がつかず、混同混乱しているのであります。仏教は「法前佛後」であり、仏教だけでなく、科学・医学・経済・政治の道理、歴史の道理においても、全ては「法前佛後」なのであります。
 仏教とは仏の教えではなく、仏に成る教えという意味であります。


慧→定→戒
 
 慧・定・戒それぞれが、仏教の修行者が学ぶべき必修内容という意味で「三学」。
 一般的には、「戒・定・慧」の三学という順序で表現するが、本来の順序は、凡夫が法を悟り「智慧」とし、経典に「定」め表し、それを修行する為の規律として「戒」を作る。という順序が正しい。


経→論→律

 経・論・律それぞれが、仏教の蔵として重要な内容が納められているという意味で「三蔵」。
 一般的には、「経・律・論」の三蔵という順序で表現するが、本来の順序は、法を「如是我聞」として口伝し、文字化した「経」、その経を整理分析した「論」、その「経」と「論」を信じ修行する教団の規律として「律(戒)」となる。という順序が正しい。


法身→報身→応身

 仏の一身には、法身・報身・応身の三要素、三側面が具わっている意味を表現する為に「三身」と言う。
 仏に成る以前、凡夫として修行し、悟った一切衆生成仏の法、法と一体化したそのままの身を「法身」。それを心身共に実行教化する智慧を「報身」。生老病死の肉体を持って、その国、その時代に実在し振舞を示す「応身」
本国土妙→本果妙→本因妙(釈尊から見た三妙)

この順序は「従果向因」の釈尊本果妙より見る順序。壽量品の経文に出て来る、そのままの順序であります。
中国天台大師智顗が「玄義」巻七上に、
「我常在此娑婆世界説法教化」本国土妙の依文。
「如是我成仏已来甚大久遠」本果妙の依文。
「我本行菩薩道所成壽命」本因妙の依文。と解釈されます。


本因妙→本果妙→本国土妙(日蓮大聖人から見た三妙)

「従因至果」の本因妙より見る順序。「三妙」と表現する。
 前段の「本国土妙」「本果妙」「本因妙」とは真逆であります。
 中国天台大師智顗が「玄義」巻七上に、
「我本行菩薩道所成壽命」本因妙の依文。
「如是我成仏已来甚大久遠」本果妙の依文。
「我常在此娑婆世界説法教化」本国土妙の依文。
 と、解釈されます。
 前段には、まず釈尊在世の娑婆世界を「本国土」として説かれていますが、末法の娑婆世界とは同じ娑婆世界でも、釈尊中心の在世と、滅後妙法蓮華経の法を中心とした末法の内容とでは、名同体異まったく異次元空間であります。次に釈尊個人としての成仏「本果妙」としての振舞が示され、完全無欠な煩悩の一切無い悟り切った仏の姿が示されるが、末法の仏とは、十界互具の未断或の凡夫が法華経の行者として己心の仏界を信じて法華経の行者として生きる事が「本果妙」成仏でなければ、一切衆生平等の成仏は有り得ないのでありますから、これも名同体異の異次元であります。最後に釈尊の五百塵点劫久遠の過去世に「我本行菩薩道」釈尊も凡夫菩薩として妙法蓮華経の縁によって、釈尊として産まれ仏と成ったという釈尊個人の「本因妙」を示されています。日蓮大聖人の示す「本因妙」は、一切衆生の本因妙であります。この壽量品の「本国土妙」「本果妙」「本因妙」は釈尊を中心とする文上の解釈となります。日蓮大聖人の文底の解釈は、釈尊滅後末法に於いては、釈尊を本尊とするのでなく、釈尊が悟った妙法蓮華経の法を己心の仏界を写す鏡として、信仰の根本尊敬の本尊にしなければ、一切の諸仏と同じ様に一切衆生は成仏する事は出来ないという事から、上行菩薩に妙法蓮華経の法を付嘱するのであります。末法に於いても釈尊中心で良いのなら、上行菩薩への付嘱はいらない事になります。日蓮大聖人は本尊書写に於いても、釈尊より妙法蓮華経証明仏である多宝如来を上座に顕されているのであります。釈尊が説いた妙法蓮華経の法ではなく、釈尊が悟った妙法蓮華経の法、釈尊の中味も一切の諸仏諸菩薩の中味も凡夫の中味も妙法蓮華経の法という意味ですから、釈尊を中心と考え、釈尊個人の始まりと説く「本因妙」と妙法蓮華経を中心として考え、森羅万象全ての生命の始まりと説く「本因妙」では、名同体異の異次元であります。文上と文底の違いは、釈尊を中心と考えるか、一切の生命の根底に具わる、己心の仏界、妙法蓮華経の法を中心と考えるのかの相違なのであります。
 久遠五百塵点の本果妙を中心と考える事を【文上】と表現します。
久遠元初、本因妙(久遠五百塵点より古い昔の意味で無く、時空に左右されない、永遠の過去、永遠の未来の中心基軸となる。ゼロの概念。中心基軸の真理には、古いも新しいも無い)を中心に考える事を【文底】と表現します。


本門の題目(本因妙)→ 本門の本尊(本果妙)→ 本門の戒壇(本国土妙)

 久遠元初・本因妙・一念三千の法を一文字に表しているのが南無妙法蓮華経の「本門の題目」。その題目を、「本門の本尊」の中心に顕わし、その本尊を安置する処が「本門の戒壇」。一般的には、「本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇」もしくは、「本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目」の順序で言う人がいますが、法門上の順序では、ここに示すように、「本門の題目・本門の本尊・本門の戒壇」の順序でなければ成立し得ない。題目無しに初めに本尊が来ることは有り得ないからであります。
 大石寺では、物体としての板曼陀羅である戒壇本尊が日蓮大聖人の法の全てであり、戒壇本尊が無くなれば日蓮大聖人の法が無くなるとまで主張しています。眼に見えないけれど、本然として厳然と存在する法を、一切衆生に示し伝える為に顕わされた本尊であるにもかかわらず、戒壇本尊だけが法で、戒壇本尊が消失すれば、日蓮大聖人の法は無くなる。他の本尊は戒壇本尊の分散した影で戒壇本尊の存在が無ければ、他の本尊に本尊の価値は無いという事まで主張しているのであります。法を表す「題目」があるからこそ「本尊」が顕され、その法を信心修行する信仰の道場、本尊安置の場所を「戒壇」とするのであって、何を踏まえての「戒壇」なのかも考えず「戒壇」を最重要視することは、一階二階を考えず、三階だけを欲する愚者と同じ間違いに酔っているのであります。 
 迹門の三大秘法という事は成立し難いので、「本迹勝劣」を否定し、「本迹一致」を主張する、身延系日蓮宗の教義では、真の本門の三大秘法を見出す事は出来ません。


法妙なるが故に→人貴し(人法一箇して仏となる)→人貴きが故に所尊し

 南条殿御返事(全集1578p)に示される。
 森羅万象全ての生命に本然と具わる、久遠元初・本因妙・一念三千の法の妙法蓮華経の法を凡夫として悟り仏と成り、その仏が法華経の行者として信行学折伏教化する処は、山谷曠野どこであっても霊鷲山である。日蓮大聖人の法には聖地信仰は有りません。どこであっても法華経の行者として生きる姿が成仏であり、行ずる場所が聖地(霊鷲山)であります。
 法妙なるが故に(題目・本因妙)→人貴し(人法一箇の本尊・本果妙)→人貴きが故に所尊し(戒壇・本国土妙)となります。
 釈尊個人の本果妙で無く、本尊は、一切衆生が信を根本として、妙法蓮華経の法と人法一箇して成仏する一切衆生成仏の手本を示している。